2009年06月16日

ヒトの常在細菌としての位置づけ

乳酸菌のうち、特にラクトバシラス属とビフィドバクテリウム属は、ヒトの消化管内や女性の膣内に常在し、常在細菌叢(じょうざいさいきんそう)の一部を成している。これらの乳酸菌は、口腔内のう蝕を除いて直接ヒトの病気の原因になることはなく、むしろ生体にとって有益になるバリヤーとして機能していると考えられている。そのため、乳酸菌は「善玉菌」と表現される場合もある。ただし、極めて稀な例だが、乳酸菌血症などの感染症の原因になる例も報告されている。
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ヒトの口腔内には多くの細菌が生息するが、Lactobacillus属も多く生息している。主なものとしては、L. oris、L. casei、L. salivarius、L. brevisなどである。このLactobacillus属はう蝕の発生に関与するとされている。1889年に歯科医師のMillerが『ヒト口腔の微生物』という研究書を出版してから20世紀半ばまで、乳酸桿菌が齲蝕の主たる原因とされていた。しかし、現在では乳酸を産生する能力は高いものの、歯面への付着能力が低く、プラーク中の菌数は少ないため、齲蝕原性は強くなく(主因では無い)、齲蝕の進行を促進するものであるとされる。

健康なヒトの腸内にはたくさんの種類の微生物が生息しており、ほぼすべての人の腸内からは、ラクトバシラス属やビフィドバクテリウム属の乳酸菌が検出される。これらの乳酸菌は、俗に言う「腸内の善玉菌」の一種として捉えられる場合が多く、腸内常在細菌叢(腸内フローラ)において、これらの細菌の割合を増やすことが健康増進の役に立つという仮説が立てられている。ただしその有効性については、意義があるとする実験結果と関連が認められないとする結果がそれぞれ複数得られており、結論が出ていないのが現状である。

2009年05月30日

羽柴秀勝 (石松丸)

羽柴 秀勝(はしば ひでかつ、元亀元年(1570年) - 天正4年10月14日(1576年11月4日))は、安土桃山時代の人物。羽柴秀吉が近江国・長浜城主時代に側室・南殿(一説に京極高次の妹竜子とも)との間に設けた長男で、幼名は石松丸(いしまつまる)。
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秀吉の正室のねねには子がなかったため、秀吉にとっては初めての男児であったが、6歳で夭折した。秀吉は幼くして没した彼を偲ぶためか、彼の名である「秀勝」を養子の内の何人かに名乗らせており、羽柴秀勝や豊臣秀勝もその一人である。その存在を疑問視する声も多いが、宝厳寺の「竹生島奉加帳」に秀吉の子の「石松丸」の存在は、その母の南殿と共に記されており、また、滋賀県長浜市の妙法寺に秀勝の肖像画が所蔵されていたが焼失し、現存していないものの、天正4年10月の銘文がある秀勝のものと思われる供養塔が残っており、同市の徳昌寺には位牌があり、法名は本光院朝覚居士となっている。

秀勝が夭折せず成人し豊臣家を継いでいたら、秀次事件や徳川家康の天下取りを阻止し、豊臣家や豊臣政権は存続したとの声がある。

2009年04月27日

奇襲(きしゅう, surprise)

奇襲(きしゅう, surprise)は、敵の予期しない時期・場所・方法により組織的な攻撃を加えることにより、敵を混乱させて反撃の猶予を与えない攻撃方法をいう。敵の混乱に乗じて、士気を減衰させ、より大きな損害を与えることが期待できる。厳密には、「奇襲」は全く敵の不意をつく攻撃であり、「強襲」(assault)とは陣地や要塞で防御を固めた敵に対する圧倒的な戦力を用いた攻撃であり、「急襲」(raid, sudden attack)とは不意をつきつつの迅速かつ大規模な攻撃であり、これらは類似概念として区別される。

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戦略的な奇襲は、戦争が始まるような関係ではなかった、政治的なチャネルが継続している、宣戦布告がないといった、防御側が開戦を十分に予想していなかった状況で、一方的に開始される戦闘行為である。

戦争の開始には、部隊の動員と集結、補給物資の調達など、数か月の準備期間を要する。こうした動きは敵側も容易に察知できるため、戦略的な奇襲は、防御側の無知や怠慢といった状況がなければ成り立ちにくい。例えばナチス・ドイツのソ連侵攻(バルバロッサ作戦、1941年6月22日)の際は、ソ連の情報機関がドイツ軍の動向を察知していたにもかかわらず、スターリンはこれをドイツとソ連とを戦わせるためのイギリスの謀略であると考えて、情報を故意に握り潰したとされている。

戦略的な奇襲は、卑怯、不名誉なものとされ否定的な文脈で扱われることもある。そのため、いくつかの奇襲と呼ばれた戦いは、国際法上合法であるかないかや、秘められた意図や思惑の有無などにわたって、史学上もしくは巷間の論争の的となることがある。有名な事例は真珠湾攻撃(1941年12月8日)であろう。日本海軍の機動部隊は、ハワイにいるアメリカ太平洋艦隊を空襲した。この攻撃は、連合艦隊司令長官山本五十六が、アメリカ太平洋艦隊を撃滅するとともにアメリカ国民の戦意を沮喪させ、出来るだけ短期に戦争を終わらせる目的で行ったものであるが、最後通牒がワシントンにある日本大使館員の職務怠慢で遅れ、真珠湾攻撃1時間後になるというハプニングによって、逆にアメリカ国民の戦意を煽ってしまったと言われる。

他の事例としては、カルタゴのハンニバル・バルカによる第二次ポエニ戦争の開始(紀元前219年)や、ナチス・ドイツおよびソ連軍によるポーランド侵攻(1939年9月1日)があげられる。

2009年04月10日

キー・システム

より高い音や低い音を求めて同属楽器が作られている。クラリネット族の各楽器は、いずれも原則的に同じ運指を用いることができる。ハ調のソプラノ・クラリネットを除いた全ての楽器は通常移調楽器として取り扱われ、ト音記号で記譜される(バス・クラリネット以下の低音楽器も基本的にト音記号表記であるが、ヘ音記号で記譜されることもある)。移動度数に関しては下表を参照。

変ロ調のソプラノ・クラリネットよりも高い音域の楽器は、必ずしも成功しているとは言えず、わずかに高いハ調のものも近年になってようやく実用的になり始めたばかりである。変ホ調のソプラニーノ・クラリネット(Es(エス・)クラリネット)は多く使われるが、これは、ソプラノ・クラリネットに比べると幾分金属的な音を出す楽器である。

クラリネットの前身楽器であるシャリュモーが一般化しなかったのは、前述のように第2倍音が使えないために、1オクターブと完全5度の音のために異なる指穴を開けなければならず(次の音で同じ指が使える)、それでは指で穴を押さえきれなかったせいである。キー装置が開発されて、必要なとき以外は常に閉じておいたり、指の届かない穴の開閉を操作できるようになって初めて、1オクターブと完全5度の指穴に対応し、第3倍音との間をスムーズに繋ぐことができるようになった。

指穴の配列並びにキー装置は、現在までさまざまなものが開発されている。

ベーム式
もっとも一般的なのが、ベーム式(フランス式)クラリネットのキー・システムである。1843年にフランスのルイ=オーギュスト・ビュッフェ(L. A. Buffet1885年没)とイアサント・エレオノール・クローゼ(H. E. Klose1808年-1880年)によって、ベーム式フルートのキー・システムを応用して1844年に特許申請し開発された。管弦楽、吹奏楽、ジャズなどで広く用いられている。キー・システムの機構は複雑になってしまうが、比較的単純な運指が実現でき、機動性が高い。初心者にも向いている。

エーラー式 [編集]
ドイツ式のエーラー式クラリネットは、1812年にミュラー(I. Müller)が開発した13キーのクラリネットを元に、ベーム式クラリネットが発明された約60年後(※1)にオスカール・エーラーによって開発された。ベーム式クラリネットの利点も取り入れられている。エーラー式クラリネットにも音色のよさから愛好家は多い。また、特にドイツ人のクラシック演奏者はエーラー式クラリネットを好んで使っている。

(※1)日本ではエーラー式をもとにベーム式が作られたという間違った解釈がまれに見受けられるが、これは大きな間違いである。なぜならエーラー式を開発したオスカール・エーラーが生まれたのは1855年でベーム式が生まれた1839年頃にはまだ生まれていないからである。また、ベーム式はドイツ式の亜種という意見も稀に見受けられるがこれは不適当な意見である。ベーム式クラリネットは独自に開発されたものという解釈が適当であろう。ベーム式によってフランスでは多くの小品やソナタが生まれた。

そのほかのキー・システム [編集]
また、オーストリアではウィーンアカデミー式という楽器が使用されている。

アルバート式のキー・システムは最近はあまり用いられていない。音色はベーム式やエーラー式とは明らかに異なる。もともとはクラシックでも使われていたらしいが、ベーム式やエーラー式のクラリネットに混じって演奏すると目立ってしまう。また、大きな音量が出る。アルバート式のクラリネットは、ニューオーリンズ・ジャズ、ディキシーランド・ジャズといった古いスタイルのジャズを演奏するときによく用いられた。現在でも古いスタイルで演奏するときに用いられることがある。

リフォームド・ベームとは、エーラー式キー・システム用に設計された管に、ベーム式キー・システムを実装したクラリネットである。エーラー式の音色のよさとベーム式の機動性ある運指とを兼ね備えている。

材質 [編集]

管体 [編集]
管は木製が一般的で、グラナディラという黒くて硬い木が最もよく用いられている(よく黒檀の一種だとされているが、グラナディラはもはや黒檀だとはみなされない。黒檀という名称は、現在は限られた数の樹木であるカキノキ科カキノキ属のために用いるように予約されている。こちらを参照)。グラナディラはアフリカのサバンナに生息する樹木で、クラリネットの管体として加工できるようになるまでには、樹齢100年近くも要するといわれる。なお、グラナディラ自体は黒色であるが、楽器として加工する際には、割れを防止するなどの目的で亜麻仁油を染み込ませ、仕上げに黒い塗料が塗られる。したがって、クラリネットの黒い管体の色はグラナディラ本来の色ではない。

廉価モデルではABS樹脂(合成樹脂の一種)製のものもあり、重量が軽く、取り扱いが容易なため、教育現場などで使用される。また、以前はマウスピースと同じエボナイト製のクラリネットも製造された。これらは、天然木につきものの「割れ」を心配する必要がないため、初心者に持たせたり、マーチングや野外応援用などに用いられることがある。他に木製の楽器として、グラナディラ以外にローズウッドやココボロなどが採用されている。

メタル・クラリネットといい、真鍮や銀などの金属管で作られたクラリネットもある。もともとは廉価な普及用に作られていたが、音色が木製の楽器に匹敵、またはそれを上回るという評価もあり愛好家も多い。コントラバスクラリネットなど、大型のクラリネットでは、材木の入手困難性や耐久性の問題などから、金属管のものも少なくない。

最近では、セラミックを用いた楽器も製造された。さらに、近年では良質なグラナディラの入手が困難となってきていることから、グラナディラの粉末とグラスファイバーなどを混合して成形した合成素材のものもある。

管体の材質についてはヤマハのページが参考になる。

キー [編集]
キーは、管の材質に関わらずほとんどが金属で作られており、以前はそのままの仕上げのキーが多かったが、近年では表面に銀メッキを施されているのが一般的である。また、ニッケルメッキのものもある。かつては木材や象牙でキーを製造した時代もあった。キーの材質としては、洋白を用いるのが一般的である。音色に影響を及ぼすことから、その金属配合比率やメッキの質・厚さなど、メーカーによって工夫が凝らされている。

キーの形状は楽器の外観、操作性に大きく関わることから、メーカーごとに意匠の違いがある。

ベーム式クラリネットでは左右の小指の替え指レバーが標準で装備されているため、ほとんどがヘラ状のレバーが用いられるが、エーラー式クラリネットでは小指で操作する替え指がないため、キーにはローラーが取り付けられ、指を滑らせて切り替えられるようになっている。

キーは素手で簡単に変形できるため、楽器の組み立て・分解の際には、キーを曲げてしまわないように注意を払わなければならない。キーバランスの狂いは、タンポが音孔を正常に開閉できなくなって音質・音程に影響するほか、運指のミスにもつながる。

キーのうち、音孔を指で直接塞ぐ部分以外には、タンポが接着されている。タンポに関しては次項で説明する。また、キーの操作に際してキーが管体に触れる部分や、他のキーと触れる部分には、コルクなどが貼られている。このコルクの厚みは、キーのバランスに影響する。

指かけ [編集]
クラリネットには、下管に右手親指で楽器を支えるための指かけが付いている。指かけは主に金属製で、親指に当たる部分にはコルク製の薄いシートが貼り付けられていることがある。また、一部のメーカーでは木製や樹脂製の指かけもある。指かけは位置が固定されているものと、手の大きさに合わせて位置が上下に調節可能なものとがある。

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2009年03月26日

トランスセクシュアリスム

性教育は、教育の分野での性に関する話題や主題の導入である。欧米諸国のほとんどすべてが、何らかの形で性教育を有しているが、しかし国ごとで、その性格は極端に相違する。オーストラリアや欧州の大部分の国では、いわゆるところの「年齢相応」の性教育は、しばしば就学前に始まる。これに対し、米国を代表とする他の国では、性教育は十代になって行われ、時には、十代後期になって初めて行われる。性教育は、「赤ちゃんはどこから来るの?」から始まって、避妊対禁欲のディベートを通じて、自省、性病の兆候、そして性的関係の社会的及び心理学的な含意(暗黙の意味)に至るまでの範囲の主題を扱う。
らんたい レタリング ゾンサワ ブルーフ リゲル ジューレ デリー きあおみ 千社札 マッタ ピーカン かつお菜 スリム ピアス ヤペテ チェンナイ 飛躍 マトリ ステップ オレゴン マーメイド スタート スピー しんとつ リュート ドラジェ ガッツ ベロッパー わくや トレイ ソリッド レイト ソーター シェーマ セオド ミント最適 カーンプル ミノロジー タイム たいわ スイッ ハンター スイート ランチコ スクープ シルヘット ヒュー ダート チャプレ ラッキ

文化的及び精神医学的アスペクト [編集]
大多数の個人における性的行動のありようは、その個人が生きる文化におけるノルム(規準)によって類型的に規定されるか、または強く影響される。このようなノルムの実例は、結婚前の性交渉に関する禁止規定であり、また、同性愛的なセクシュアリティやその他の類例な性的活動に対する否定規定である。この理由は、個人の属する文化において支配的な宗教や道徳が、このような行動を禁止するためである(文化における禁忌を参照)。しばしば、このような文化的に誘導された性的行動は、個人の自然な性的傾向と矛盾することがある。

文化ノルムに反したセクシュアリティを表現したいと望む者は、様々な形の迫害や抑圧によって、主流文化(メイン・カルチャー)の内部にあって下位文化(サブカルチャー)を形成することを強いられる。別のケースにおいては、セクシュアリティのありようは、フェティシズムへと展開するかも知れず、あるいは、それに代わって、精神医学的な障害や性的倒錯の形式として発達するかも知れない。

性的指向 [編集]
人間は、個々人で定まっているある規準に基づいて、特定の人間や動物、物体、また何らかの振る舞いに、性的に強く引きつけられ魅惑される。対象の性別や年齢、外見や特定の様態が規準となって、このようなことが起こる。人が何に魅惑されるか、一般に類型が存在しており、これを性指向または、広い意味で、性嗜好と呼ぶ。

基本的な性指向 [編集]
もっとも一般的で多数派である性指向は、異性愛、すなわち、自己の性別と反対の性の人への性的魅惑である。異性愛は、20世紀中葉に至るまで、西欧を代表として多数の社会において、正常と見なされた唯一の性指向であった。異性愛以外の性指向や性嗜好は、病気であるか倒錯であると見なされた。この基準に立たない人は、しばしば偏見や迫害の犠牲者となった。とはいえ、西欧以外の社会では、多くの例外が存在したことも事実である。少年愛の項目を見ると、現在では、小児性愛や同性愛と見なされる性的関係が、文化制度において認められていた社会の存在が分かる。

しかし、西欧の社会において、自己の性別と同じ性の人への性的魅惑、つまり同性愛が、異性愛と同様に正常なものだという考えが、20世紀中葉以降、ますます一般化して来ている。この延長で、男女両方の性の人への魅惑、すなわち両性愛もまた一般的に承認されて来ている。更に、いかなる性的魅惑も感じないこと、すなわち無性愛がまた、正常な性指向として認知されつつある。

異性愛
同性愛
両性愛
無性愛
トランスセクシュアリスムは、性的指向の問題というよりも、社会的・文化的な性別、つまりジェンダー・アイデンティティの問題である。トランスセクシュアルの人は実際のところ、異性愛の場合も、同性愛の場合も、両性愛、または無性愛の場合もありえる。トランスセクシュアリスムは、人間のセクシュアリティ(性存在性)に対し何の影響も及ぼさない。ジェンダーにおける自己同一性(アイデンティティ)は、初期の幼児の時代に決定されるのであり、この時点では、個人はいまだ社会化されておらず、従って、社会のノルム(規範)や価値観に支配されていないのである。

2009年03月11日

ロス・インヘニオス渓谷

ロス・インヘニオス渓谷(Valle de los Ingenios)は、トリニダの外側およそ12 km に位置するサン・ルイス(San Luis)、サンタ・ロサ(Santa Rosa)、メイエル(Meyer)という3つの渓谷の総称である。ロス・インヘニオスとは「機械類」のことで、後述の製糖機械にちなむ名称であり、「砂糖の谷」の異名もある。山間に平坦な地形が広がっているため、日本語ではロス・インヘニオス盆地とも訳される。

ロス・インヘニオス渓谷は、18世紀末から19世紀末まで砂糖生産の中心地であった。キューバにおけるサトウキビ生産の絶頂期には、渓谷では50以上の製糖工場が稼動し、3万人もの黒人奴隷が工場や周辺のサトウキビプランテーションで働かされていた。全体の面積は270 km? で、70以上の製糖工場跡が残っている。

製糖業は、スペイン人がキューバに入植し始めた時点以来、重要な産業となっていた。スペイン人がサトウキビを島に持ちこんだのは1512年のことで、その交易はトリニダや周辺地域を豊かにした。18世紀末から19世紀には世界一の生産量を誇り、キューバの基幹産業になっていた。
わっしょい ダード オフコ 検索村祭 コーヒー ビザウェー マンボン カイモ ハイス レザーク スパイ ナイジェ ループ ファンベト 私が主役 デイラ ストライカー キシング クアハ ワンシ ハイソ メタフ ツーロン ワイキキ デリカシー メモリ セッショ メタノール マイカ タチバナ ストレート リポート ジャンダ トメーシ オブシデ メダル サージ グリース シーモス ロビイング ドライブ ルレット シェンド ツイード スーサ クロス わっさむ レーキ ニーム トーチャー

気候と土壌はサトウキビ栽培に申し分がなく、精製された砂糖を出荷・輸出するのには、港、鉄道、道路などの交通網の充実が役立った。砂糖の品質劣化を避けるためには迅速な輸送が不可欠であり、その目的を達するために、1880年代にはロス・インヘニオス渓谷とトリニダ、そしてトリニダとは6km離れていた沿岸部のカシルダ(Casilda)とを結ぶ専用鉄道が敷設された。

ロス・インヘニオスはアガバマ川(Rio Agabama)、カラクセイ川(Rio Caracusey)、アイ川(Rio de Ay)、タヤバ川(Rio Tayaba)などから水を調達することができる。ヨーロッパ入植者が持ちこんだ病気と、奴隷としての粗悪な扱いによる使い捨てのせいで実質的に地元の先住民が死滅してしまったため、スペイン人のプランテーション経営者たちは、サトウキビ畑や工場で働かせるために、アフリカから奴隷を連れてくるようになった。1820年にスペイン人によって奴隷制が廃止されると、奴隷を輸入することは難しくなった。しかし、19世紀の独立戦争で終止符が打たれるまでは残存しており、その時に至ってようやく多くの製糖工場が放棄されるか停止するかした。

世界遺産
1988年にロス・インヘニオス渓谷は近隣のトリニダとともに、ユネスコの世界遺産リストに登録された。ほとんどの製糖工場は廃墟と化しているが、農園主の邸宅が残るグアチナンゴ(Guachinango)や、農園主の邸宅、監視塔、「バラコーネ」群(barracones)、奴隷の居住地区などが残るマナカ・イグナサ(Manaca Ignaza)の地所のように、無傷の建造物の残る遺跡もある。マナカ・イグナサの「バラコーネ」群は現在住居に使われているが、修繕は粗末である。これに対し、レストランに転用されている農園主の邸宅や監視塔は良く手入れされている。高さ45 m の監視塔、通称「イスナーガの塔」は、1830年から1835年にかけて、農園主アレホ・イスナーガ(Alejo Iznaga)が建てさせたものである。この塔はサトウキビプランテーションを360度見渡すことができ、奴隷たちを監視するのに使われていた。同時に、一時はキューバで最も高い建造物であったこの塔は、奴隷たちや製糖業界にイスナーガ家の権勢を見せ付ける象徴としても機能していた。かつては塔にあった大きな鐘は奴隷たちに一日の労働の終わりを告げていたが、その鐘は現在塔の下に置かれている。

2009年02月23日

チャモロ語(チャモル語とも)

チャモロ語(チャモル語とも)はグアム・北マリアナ諸島(北マリアナ連邦)の現地人の母語である。

どちらの国でも公共の場では英語が、また観光業に従事する人を中心に日本語も使われているが、依然チャモロ語も話されている。チャモロ語はアメリカの本土に移住した人々とその子孫の一部にも使われている。
みかんいろ バリトン サーファ マスター ハンディー ニュルン すみのえ ロフルス タラップ ステン ハート フォロワー ダイヤ ディク ランド パーク カーブ シャト ラン トップ とうたい ジャン ルー メルク ニックス カレワ とうみょう ぶきいろい ディッシュ ラベル タオイズ ダイアモンド ショウ ベッド おじま ハイボー タイプライ 宇宙ステー ピンタック オートクチ ティンカー カラム モッコク ヤード きくらげ トータル ケトン ヒョウ メンバー チャンネル

チャモロ語の多くの単語はスペイン語を語源としている。例えば、店を意味するテンダ(tenda)は、スペイン語のティエンダ(tienda)から来ている。このため、チャモロ語はスペイン語のクレオール言語であるとみなされることがある。しかし、チャモロ語の借用語の利用は非常にミクロネシア語的である。

例えばボール遊びを意味するブモボラ(bumobola)という言葉は、スペイン語から借用したbola(ボール)にチャモロ語の接中辞 umと語根の重複(reduplication)が組み合わされている。とはいえスペイン語の影響はきわめて甚大であり、数詞を含む基本語彙にまで及んでいるため上記の指摘もあながち間違っているわけではない。

ここまでスペイン語に侵食された状況では、クレオール言語ではないにしても限りなくそれに近いとみなされても仕方ないだろう。猶一部に現在のチャモロ語をスペイン語に『征服』された言語だとし、チャモロ語古来の単語を復活させようとする純化運動も存在する。

およそ5万から7万5千人のチャモロ語話者がマリアナ諸島の全域にいる。チャモロ語は北マリアナ諸島(北マリアナ連邦)の家庭では今でも一般的に使われているが、グアムではアメリカ統治下でアメリカ英語のピジンがもっぱら使われるようになり、チャモロ語の流暢な話者が大幅に減少している。

チャモロ語はフィリピン諸語の一部と文法上最も近縁な関係にある。

アルファベット
' (グロッタル・ストップ), A, Å, B, Ch, D, E, F, G, H, I, K, L, M, N, Ñ, Ng, O, P, R, S, T, U, Y このうち、Yはスペイン語(カステリャーノ)の一部方言と同様に、かなで書くとジャに近い発音となる。また、Chは通常tsh(チュ)よりもts(ツ)に近い発音となる。AとÅは必ずしも区別して書かれる訳ではなく、しばし単にAと書かれていることがある。NとÑも同様である。このため、グアムの地名Yonaは、ヨナではなくジョニャと発音される。

基本表現
Håfa adai(ハファ ディ)"こんにちは"
Håfa tatatmanu hao?(ハファ タタマヌ ハウ)"お元気ですか?"
Hayi na'an-mu?(ハジ ナァン ムゥ)"あなたのお名前は?"
Si Taro yu'(スィ タロウ ジュ) "私はタロウです"
[編集] 数字
チャモロ語にはかつて日時などを数える基本的な数字、生きた物を数える数字、静止物を数える数字、長い物を数える数字の区別(日本語の助数詞による区別に相当)があったが、現在ではスペイン語起源(元をたどればラテン語起源)の数詞が借用されて一般に使われている。

現在一般に使われているチャモロ語の数字

Un, Unu(ウン、ウヌユ)1
Dos(ドス)2
Tres(トレス)3
Kuatro(クアトロ)4
Sinku(シンク)5
Sais(サイス)6
Sietti(シエッティ)7
Ochu(オチュー)8
Nuebi(ヌエビィ)9
Dies(ディエス)10

2009年02月06日

前方後円墳

前方後円墳 (ぜんぽうこうえんふん)は、日本における古墳の一形式。平面が円形と方形の墳丘を組み合わせた形状は、日本独特の特徴であり、出現期より規模の大きさを特徴としている。墳形については、現在では円形墳丘墓の通路部分が発達し墳丘と一体化したものであると考えられている。前方後円墳は日本列島の広範囲に分布しており、北は岩手県奥州市から南は鹿児島県にまで及んでいる。近年の研究により、古代伽耶が存在した朝鮮半島西南部でも存在が確認されている。
シントニア タコス オイル マヤ吉 ケルン ミーハー ボタン たこいと デュアル アルル ライン アクサ ビー玉 ロコモコ ライフ テナー クチル トッププ ナズナ ロベニア シタニア キング ブルー レンド ハファダ シリア マリンホス タイトス リテール シラー カノープス きねづか ブダペ スノーグ チョウゲ フルタイ モミジ デブリ ブラッシ 深海魚 シルバー ビーテ トライ サイキック ブレッツ プルーフ すいか くもり ダッジ ミーア

「前方」とは「前半分が方形(四角形)である」という意味であり、「前の方向」という意味ではない。

日本が起源である前方後円墳についてこれまで幾つかの議論がおこなわれている。最もよく知れられているものは、弥生時代の墳墓から独自に発展したものであるという学説である。この説においては従来より存在した円形墳丘墓の周濠を掘り残した陸橋部分(通路部分)が発達し、墓(死の世界)と人間界を繋ぐ陸橋として墳丘と一体化したと考えられる。それに対して梅原末治らは中国大陸からの影響があったとの説を提起していた。梅原は始皇帝陵などの前方に設けられていた祭壇などに由来するとしている。

形状
模式図
前方後円墳の形状は、古くはヒョウタン形などとも形容されていた。「前方後円」の語は、江戸時代の国学者蒲生君平が19世紀初めに著した『山陵志』で初めで使われた。蒲生は、各地に残る「車塚」という名から、前方後円墳は宮車を模倣したものだと考え、方形部分が車の前だとした。しかし現在では古墳時代にそのような車は存在しなかったと考えられている。明治末期になり、ゴーランドは円墳と方墳が結合して、清野謙次は主墳と陪塚が結合して前方後円墳になったと推測した。その後、壺形土器の形や盾の形を模倣したというような学説も生まれた。

現在の研究では、平面では円形をしている後円部が埋葬のための憤丘で主丘であり、平面が撥形・長方形・方形・台形などの突出部をひっくるめて前方部と呼ぶ。前方部は、弥生憤丘墓の突出部が変化したもので、もともと死者を祀る祭壇として発生・発達とする説や葬列が後円部に至る墓道であったとする説があり、次第に独特の形態を成したと考えられている。ただし時代が下ると前方部にも埋葬がなされるようになった。しかし、慣習と便宜によって前方後円墳、前方部、後円部といった用語はそのまま使われている。古い形の前方後円墳は前方部は低く撥方をしており、後円部は新古にかかわらず大きく高く造られている。撥形にしているのは、葬列が傾斜の緩やかな道を通れるように前方部の左右の稜線のどちらかを伸ばしたものと考えられている。

分布
前方後円墳の存在が明確でないのは北方では北海道、青森県および秋田県の3県と南方の沖縄県のみにすぎない。建造時期や個数には幅があるものの、他の43の都府県では数百基から1、2基の前方後円墳が知られている。離島の対馬、壱岐、隠岐などにも存在する一方で、これまでのところ淡路では存在が確認されていない。各地域で最後に建造された前方後円墳はその時期にほとんど差がないことが判明している。5世紀を最後に建造が途絶えた徳島県などは数少ない例外である。

日本列島以外では、近年韓国における考古学者の研究によって倭の支配を受けていたと見られる朝鮮半島南部から南西部にかけて5、6世紀に建造されたと見られる前方後円墳の存在が明らかになっている。

近畿地方を中心として日本全国に広く分布する大型の前方後円墳の周りには、小型の前方後円墳、あるいは円墳・方墳が寄り添うように建造されており、複数の大型古墳から構成される古墳群が形成されている箇所も多い。古墳時代に築かれた巨大な墳墓中はその多くがこの前方後円墳であり、その中で最も大きなものは大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)であり、墳墓の表面積としてはクフ王のピラミッドおよび始皇帝陵をしのぐ世界最大の墳墓である。墳丘の全長が486メートル、高さが36メートル、周りには、三重の周濠を巡らしている。

終焉
佐紀盾列古墳群
奈良県奈良市6世紀になると前方後円墳の造られ方に変化が生じてくる。関東地方以西ではほとんどの前方後円墳の規模が縮小し、墳丘長100メートル以上の規模の比較的大きなものは九州の岩戸山古墳、尾張の断夫山古墳など一部を除くと、奈良盆地内や古市古墳群など、畿内に集中するようになる。

また岩戸山古墳と断夫山古墳、そして畿内でも大王墓の可能性が高い古墳とその他の古墳との規模の格差が拡大している。これは当時の社会体制の変化を表しているものと考えられ、特に河内大塚山古墳、見瀬丸山古墳、今城塚古墳といった大王墓と見られる古墳の規模は他を圧しており、これまでの有力首長の共同統治から大王への権力の集中が始まったものと見られている。見瀬丸山古墳など6世紀の大王墓と推定される墳墓は、3世紀から大王墓が造られ続けてきた古市古墳群、百舌鳥古墳群、馬見古墳群、佐紀盾列古墳群、大和・柳本古墳群といった古墳群から離れた場所に造られており、この点からも6世紀のヤマト大王の権力構造に変化が生じたことがわかる。

また前方後円墳の形式にも変化が生じ、陪塚が見られなくなり、葺石の使用も少なくなり、墳丘の段築も3段が基本であったものが2段に減少する。そして関東地方を除くと埴輪も使用されないようになっていく。つまり6世紀の前方後円墳は大きさばかりではなく視覚的な見栄えも低下しており、当時の社会における前方後円墳そのものの位置づけにも変化が起きてきたと考えられる[1]。

一方、関東地方では他の地方とは異なり、6世紀、埼玉古墳群など墳丘長100メートルクラスを含む前方後円墳が盛んに造られる。埼玉古墳群では長方形をした二重周濠の築造、下野の前方後円墳では基壇と呼ばれる広い平坦面を持った前方後円墳など、地域色が見られる前方後円墳が造られており、6世紀の段階ではまだ全国一律の造墓規制を行う段階には至っていない。

前方後円墳の出現期から、大王陵と見られる大型の古墳を始めとする多くの前方後円墳が集中的に造られてきた畿内の古墳群では、6世紀半ばに古市古墳群で前方後円墳の築造が終了した後、前方後円墳は造られないようになり、6世紀後半になると、全国各地で前方後円墳が造られないようになっていく。大王陵としても6世紀後半に造営されたとみられる見瀬丸山古墳か梅山古墳、または太子西山古墳を最後に前方後円墳から方墳へと変わった。関東地方や周防など[2]、一部の地域で7世紀初め?前半まで前方後円墳の築造が続いたケースもあるが、おおむね6世紀末までに前方後円墳の築造は終了し、その後、首長墓は主に円墳ないし方墳に移行し、大王墓など一部の首長墓は八角墳などの多角形墳に移行する。

『日本書紀』孝徳天皇の大化2年(646年)三月甲申(こうしん)の条に長文の詔がある。造墓の制限や禁止に関するもので、一般に「大化薄葬令」と呼ばれているものである。文献上の信憑性については、研究者の間で論議のあるところである。「大化薄葬令」が引用している『魏志』の武帝紀や文帝紀の薄葬主義は、墳丘の造営を一切否定するものである。「大化薄葬令」は、王以上、上臣、下臣だけが墳丘の造営が認められ、大仁(だいにん)、小仁(しょうにん)、大礼(だいらい)以下小智(しょうち)の墓は、小石室つくることは認められるものの、墳丘の造営は認められなかった。このことから徹底した薄葬ではなく、不完全な薄葬であった事が分かる。 前方後円墳がそうであったように、身分を現すものとしての考えが残っている。「大化薄葬令」には、庶民は「地に収め埋めよ」とある。木棺に遺骸を入れるか、直接土に埋めるかのどちらかで、土壙墓(どこうぼ)を指しているのであろう。

また、火葬の普及も古墳の矮小化に拍車をかけることとなり、結果、大規模な前方後円墳の造営は行われなくなった[要出典]。そして、円墳と方墳を平面的につなぎ合わせた前方後円墳は、円墳と方墳を立体的につなぎ合わせた上円下方墳(下段が方墳、上段が円墳)に取って代わられることとなった。[要出典]上円下方墳は近代以降の天皇家の陵墓にも採用されており、昭和天皇の武蔵野陵もこの形状である(上円部2段・下方部3段から成る)。

2009年01月22日

私の内閣で変更するものではない

2006年
10月5日 安倍晋三首相が「河野談話」を「私の内閣で変更するものではない」とし、政府として引き継いでいくことを明言する。
10月25日 内閣官房副長官の下村博文が東京・有楽町の日本外国特派員協会における講演で、「河野談話」について、「もう少し事実関係をよく研究し、時間をかけて、客観的に科学的な知識を収集し考えるべきだ」と述べる。
2007年
1月末 マイク・ホンダら6人の 民主党の米下院議員が共同署名で米下院に慰安婦問題に対する日本政府の謝罪要求決議案(H.Res.121)を提出。戦時中に日本が、アジアの女性たちを強制的に「性奴隷」にしたことに対する首相の公式謝罪などを求める内容。
2月15日 米下院院外交委員会アジア太平洋・地球環境小委員会における公聴会で、李容洙、金君子、ジャン・ラフ・オハーンの3人の元慰安婦が証言。
2月19日 衆院予算委員会において、麻生太郎外務大臣が慰安婦をめぐる対日非難決議案にある「日本軍による強制的な性奴隷化」という記述について「決議案は客観的事実に基づいていない。日本政府の対応を踏まえておらず、はなはだ遺憾だ」と不快感を表明。麻生外相は同年3月11日、フジテレビの番組で、この対日非難決議案をめぐる動きについて「日米(関係)を離間させる有効な手段だ。」として、第三国による対日工作の可能性を指摘。司会者の「北朝鮮や中国による工作か」との質問に同意する。
2月25日 フジテレビ系列の『報道2001』に中継で出演したマイク・ホンダは、「謝罪要求決議案は、反日の決議案ではなく、和解・平和ということを意識した決議案である」、「国会において、総理大臣が正式にきちんと陳謝するというプロセスが重要である」という旨を述べる。また、強制連行があった根拠を問われ、「被害者の証言」や「アジア女性基金による支援」、「河野談話」、「総理の謝罪」がなされたこと自体が根拠だと主張。
3月1日 自民党の「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」が「慰安婦に対して、日本軍の強制連行はなかった」との見解を明らかにし、政府に慰安婦問題に対する調査を要求。[88]
3月1日、安倍晋三首相が「河野談話」に関する記者の質問に対して「旧日本軍の強制性を裏付ける証言は存在していない」と語り、国内外から波紋を呼ぶ。
3月5日 参院予算委員会において、安倍首相が、「(米下院に提出された慰安婦問題をめぐる対日非難)決議案は客観的事実に基づいていない」、「決議があっても謝罪することはない」と答弁する。
3月14日 自民党の議員連盟「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」会長の中山成彬 元文部科学相と下村博文官房副長官との会談で、当面は慰安婦問題に関する再調査しないことで合意。
3月16日 日本政府は閣議において、社会民主党の辻元清美の慰安婦問題に関する質問主意書[89]に対して、「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示す記述は見当たらなかった」とする答弁書[90]を出す。
3月23日 「日本外国特派員協会」(東京・有楽町)で記者会見した中曽根康弘元首相に慰安婦問題に関する質問がなされる。海軍将校だった中曽根がボルネオ島で「慰安所」を設営したと回顧録で述べていることに対し、外国人ジャーナリストらが追及。中曽根は「私は飛行場を作る施設部隊にいた。(相当な期間を要するので)、徴用した工員たちのための娯楽施設を設営した」と説明。「『娯楽』とはどんな娯楽か」「強制はあったのか……」との質問に「海軍におったのでその点は知らない」とし、慰安婦問題については「河野談話を踏まえて謝罪すべきは謝罪する……」と答える。[91]
3月24日 米紙『ワシントン・ポスト』が「安倍晋三の二枚舌(Shinzo Abe's Double Talk)」と題する社説を掲載。歴史的な記録により、日本が慰安婦を強制連行したことは「北朝鮮が日本の市民を拉致した証拠に劣らず説得力がある」、「拉致問題で国際的な支援を求めるなら、彼は日本の犯した罪の責任を率直に認め、彼が名誉を傷つけた被害者に謝罪すべきだ」とし、「河野談話」を後退さてはならないと主張。
3月28日 アメリカで最も使われている歴史教科書「伝統と出会い:過去に対する世界的 展望(Tradition & Encounters: A Global Perspective on the Past)」に、日本軍が当時、最大 30万人に達する女性たちを慰安婦として強制連行したとの記述があることが判明。[92]
3月31日 元従軍慰安婦への償い事業を十二年間行ってきた「アジア女性基金」が解散。
3月31日 米の『ニューヨーク・タイムズ』が国際面の1ページを使って吉見教授のインタビューを掲載。「軍の関与を示す資料発掘によって論争に終止符が打たれたのに、安倍晋三に先導された若い民族主義者の政治家らが河野談話の撤回に向けたロビー活動を行った。」という旨の批判。
4月3日 アメリカ議会調査局の専門家らが「日本軍の『慰安婦』システム」と題する議員の審議用資料とする報告書を作成。「軍による女性の強制徴用」について、「日本軍はおそらくほとんどの徴募を直接に実行はしなかっただろう。特に朝鮮半島ではそうだった」との見解を示す。また、「アジア女性基金」の設立や「河野談話」など、日本政府が謝罪や賠償の努力を重ねてきたことを指摘、日本へ更なる謝罪や賠償を要求することに疑問を呈す。[93]
4月17日 林博史関東学院大学教授が外国特派員協会における記者会見で、「従軍慰安婦」問題に関する新資料七点を発表。戦後の東京裁判でオランダ、フランス、中国の検察団が提出した尋問調書や陳述書が旧日本軍が慰安婦を強制連行し、性行為を強要したたことを示していることを指摘。
4月26日 米紙『ワシントン・ポスト』が「慰安婦問題ワシントン連合」(徐玉子会長)をはじめとする在米韓国系団体の「慰安婦の真実」と題した全面広告を掲載。、「日本はこの犯罪に全面的な責任を取ったことは一度もない」と非難、慰安婦問題に関し日本政府の謝罪を求める下院対日決議案の採択を求める。
4月27日 総理として初の訪米した安倍晋三は連邦議会においての上下両院幹部との会談で、「慰安婦問題について「私の真意が正しく伝わっていない」、「辛酸をなめられた元慰安婦の方々に、個人として首相として心から同情するとともに、極めて苦しい状況に置かれたことに申し訳ないという気持ちでいっぱいだ」と元慰安婦らに対する同情とおわびを表明。[94]

論点

強制連行の有無
実際に強制性が存在したかについては、いわゆる強制連行の有無や、売春が強制下で行われたのではないかなどを含めて様々な議論がある。強制的に連れ去られた事実が存在したのか、また存在したとしてそれを行い売春を強要させた主体が日本政府(軍)だったのか、被害者の両親と金銭取引を行い、本人の意思を無視して連れ去った民間業者だったのかで意見が分かれる。

2006年9月13日に米上院外交委員会に提出された慰安婦問題に関し日本政府に謝罪を求める決議案(H.Res.759)は「日本政府は性奴隷にする目的で慰安婦を組織的に誘拐、隷属させた」としており、2007年1月31日に提出された同様の決議案(.Res.121)は「日本政府は「帝国軍への性行為という唯一の目的のために若い女性を職務として連行した」としている。
中央大学教授吉見義明は、秦郁彦が済州島での実地調査で吉田証言がウソであったことが判明したと報告して間もなく、人狩りのようなことは“狭義”の強制連行であるが、詐欺などを含む「“広義”の強制連行」というものも問題であると主張するようになった[49]。後に吉見教授は、自身の見解を質された際に、「植民地での奴隷狩り的強制連行は確認されていない」こと、「挺身隊が慰安婦にさせられた例も確認されていない」ことを認めている。[95]
小林よしのりは、吉見義明をはじめとする慰安婦制度批判派が、旧日本軍による強制連行を批判してきたのに、証拠が無いとわかっても自説の訂正や謝罪はせず、「広義の強制性」を持ち出してきたことを「論点のすり替え」だとして批判している。[96]
秦郁彦は実質的に強制であるかどうかではなくて、物理的な強制連行の有無が問題だとし、「そうしないと、ある世代の全員が『強制連行』になりかねない。」と吉見義明の「狭義の強制性」論に異議を唱えている。[73]また、「強制連行」については、志願者が多数いたので「強制連行」する必要性はなかったとし、「強制連行」されたという証言は元慰安婦の証言のみで、第三者の目撃証言はこれまで一切なく、2000年の「国際女性法廷」において、配られた60数人の元慰安婦の来歴には誰が慰安所に強制連行したかといういう主語が一切省かれていたと指摘している[34]。
『朝日新聞』は1997年3月31日付の社説で、「旧日本軍の従軍慰安婦をめぐって、日本の責任を否定しようとする動きが続いている。これらの主張に共通するのは、日本軍が直接に強制連行したか否か、という狭い視点で問題をとらえようとする傾向だ」と主張。
親日的で知られる日本国籍を取得した韓国出身の日本の評論家呉善花は自身がインタビューした「生活者の連帯意識も民族意識や民族愛も強い当時の朝鮮人が、娘たちが強制的に連れて行かれるのを見て黙っているわけがなく、そんな世界で女狩りなんてできるはずがない」 という当時を知る日本人の証言を紹介し、自身が韓国にいた間、「慰安婦」の話を耳にしたことがなかった意味が、ようやくわかったと自著で述べている。
ジョブコー ダーポポ プライ オール ハンドグ フェア はずたか タフガ シミュレ 冬の花 ポテト トゥー ハンカ ハシェマ やまふじ インレット ゆずの里 カガシ マンシェ ナサラ ヌクレ 検索モミ カラカス スピー オリジナ 水菜 ビジョン ズーム マウンテ ドレス トカマク ムギセ ベニバ グラソース キング コード オパール オーセン クール ランボ たてじょう ブラゾーン おおみ リンス バロキ スノー ドウェー プレス プロペ いぬまき

慰安婦に関する調査を実施した平林博・内閣外政審議室室長や石原信雄官房副長官は、政府の調査おいて、軍や官憲による慰安婦の強制募集を直接示すような証拠も証言もなかったと国会答弁[32][33]や新聞[58]、雑誌[98]等のインタビューにおいて語っている。
インドネシアの抑留所を管理していた第16軍軍政監部は、強制しないこと、自由意思で応募したことを証するサイン入り同意書を取るように指示していたが、それに反し、ある幹部候補生隊がオランダ人女性35人をスマランの慰安所に強制連行したこと(「白馬事件」)が戦後、連合国によるB,C級法廷で裁かれ、軍人のほかに 、慰安所を経営していた日本人業者のうち、一人が死刑、10人が有罪となったとの記録が残っており、これが強制連行を行なっていた証拠であるとの指摘[99]がある一方、軍は事件後慰安所を閉鎖しており、元もと自由意思で応募する者だけを慰安婦にする方針だったので、むしろ強制連行を行なっていなかった証拠であるとの反論がある。[

2009年01月15日

ベンゾジアゼピン

バゲット クス ポイント ヌガー ソリッド 一石二鳥 ミックス ランウエー アヨーチン ブルペン ステーク ドンファン フィル 検索クワ ギガス おじまじ タンポン カレンシー ぼうふう トリグ シャーマン シシャパ キトサン タウリン フィー リーキ シシカバブ バーガー モダンアート セントラ ヒンドゥー フレッ サイゴン 王様検索 フルネュ ナロー ひみつり オーバ カーフェリ サーベイ レジェンド サー油 マイタ かぶらや デミタ ラジエ スター ダンサー テンキー イニング

ベンゾジアゼピン (benzodiazepine) は、ベンゼン環・ジアゼピン環・アリール環から構成される、脳の中枢神経のGABA受容体の作用を亢進し、中枢神経の信号の流れを抑制する事によって、不安や興奮などを抑制する働きを持つ物質である。不安や興奮を抑制することで眠気を誘うため不眠の薬としても利用される。

このベンゾジアゼピン受容作用を利用した薬をベンゾジアゼピン系と総称し、主に睡眠薬や抗不安薬(マイナートランキライザー)に利用されている。またベンゾジアゼピンが作用する部位によって中枢神経への影響も微妙に異なっており、抑鬱状態の改善や痙攣発作の軽減を行う物質もあるため、抗うつ薬や抗てんかん薬として使われるケースもある。

1960年代頃から使われ始め、バルビツール酸系薬剤に比べ、耐性が出来にくい、毒性が低く比較的安全であるといった特徴が有るため不眠や不安などの軽減用の薬として広く使われている。

ベンゾジアゼピン系は比較的安全と言われているが、アルコールとの併用は奨められておらず、ベンゾジアゼピン受容体の作用で一種の健忘を引き起こす副作用がある薬剤もある。アルコール併用や大量摂取時、高齢者には、逆に不安・易刺激性などが出現することもある(奇異反応、paradoxical reaction)。また長期の服用で依存や離脱症状を起こす場合があるため注意が必要である。

中枢神経系では神経伝達物質として、アミノ酸が多く分布している。主な神経作用性のアミノ酸としては興奮アミノ酸であるグルタミン酸、抑制アミノ酸であるGABAが有名である。グルタミン酸受容体(ナトリウム、カルシウムイオンチャネル)としてはイオンチャネル型受容体であるAMPA受容体、NMDA受容体、カイニン酸受容体がよく知られており、代謝型グルタミン酸受容体としてはmGluRが知られている。GABA受容体ではイオンチャネル型であるGABAA受容体(クロールイオンチャネル)とGタンパク共役型受容体であるGABAB受容体が知られている。

GABAA受容体にはリガンドであるGABA結合部位の他にバルビツール酸系結合部位、ベンゾジアゼピン結合部位、糖質コルチコイド結合部位、ペニシリン結合部位、フロセミド結合部位、フルマゼニル結合部位が知られており、GABAとの反応性の調節を行っている(ペニシリンはGABAアンタゴニストのように振舞うのはこのためである)。

ベンゾジアゼピン系はGABAA受容体と結合するとチャネルの開口頻度を増加させる。バルビツレートと異なり、開口時間を延長せず、高用量負荷してもアゴニスト活性をもたない。その点でバルビツレートよりも安全性が高いと考えられ、抗不安薬、睡眠薬、抗てんかん薬、筋弛緩薬として使用される。ベンゾジアゼピンがクロールチャネルの開口頻度をあげるメカニズムとしてはGABAとGABAA受容体との結合親和性を高めるためと考えられている。言い換えると、GABAの濃度―作用曲線を左にシフトすることとなる。

GABAA受容体の主な作動薬といえばバルビツレートとベンゾジアゼピンであるが、バルビツレートはGABAの最大効力をあげるのに対してベンゾジアゼピンは用量効力をあげると考えられている。

ベンゾジアゼピン受容体には3つのサブタイプが知られている。それは中枢性のω1,ω2および末梢性のω3である。殆どのベンゾジアセピンがω1,ω2を区別しない。ω1が鎮静に関わり、ω2が認知、記憶、運動機能に関与すると考えられているが明らかになっていない。完全アゴニストがベンゾジアゼピン受容体の占有率に応じて、抗不安、抗けいれん、鎮静、健忘、運動失調、筋弛緩の順に発現すると考えられ、副作用が選択に出現しない部分アゴニストの開発が急がれていた。その結果、ゾピクロン(アモバン)やゾルピデム(マイスリー)といった非ベンゾジアゼピン系睡眠薬が開発された。これらはω1には作用するものの、ω2には作用しないため鎮静作用が殆どで、抗不安作用、抗けいれん作用、筋弛緩作用は弱くなっている。反跳性不眠や依存性もほぼなく、離脱症状も生じないため安全性がかなり高い。ベンゾジアゼピンの拮抗薬としてはフルマゼニル(アキネトン)が有名である。インバースアゴニスト(受容体の基礎活性を抑制する)としてはプロプラノールやアトロピンが知られている。

主なベンゾジアゼピンの臨床適応
名称 適応 作用時間
ミダゾラム 麻酔前投与、静脈全身麻酔 短時間作用型(3?8時間)
クロラゼプ酸 不安障害 短時間作用型(3?8時間)
アルプラゾラム 不安障害、恐怖症 中間作用型(10?20時間)
ロラゼパム 不安障害、てんかん重積、静脈全身麻酔 中間作用型(10?20時間)
ジアゼパム 不安障害、てんかん重積、筋弛緩、静脈全身麻酔、アルコール離脱 長時間作用型(1?3日)
トリアゾラム 不眠 短時間作用型(3?8時間)
エスタゾラム 不眠 中間作用型(10?20時間)
フルラゼパム 不眠 長時間作用型(1?3日)
クアゼパム 不眠 長時間作用型(1?3日)

全てのベンゾジアゼピンは鎮静作用をもっているが効果の出現時間、作用時間などが異なっており臨床適応はかわってくる。

主なベンゾジアゼピン系抗不安薬
ジアゼパム(商品名:セルシン、ホリゾン)最も標準的なベンゾジアゼピン類薬物である。
アルプラゾラム(商品名:ソラナックス、コンスタン)
ロフラゼプ酸エチル(商品名:メイラックス)
ロラゼパム(商品名:ワイパックス、アズロゲン)
ブロマゼパム(商品名:セニラン、レキソタン)
クロナゼパム(商品名:リボトリール、ランドセン)(抗てんかん薬)
フルトプラゼパム(商品名:レスタス)

主なベンゾジアゼピン系睡眠薬
超短期作用型
トリアゾラム(商品名:ハルシオンなど)
短時間作用型
ブロチゾラム(商品名:レンドルミンなど)
ロルメタゼパム(商品名:エバミール、ロラメット)
短-中時間作用型
中時間作用型
ニトラゼパム (商品名 : ベンザリン、ネルボンなど) 最初のベンゾジアゼピン系催眠薬である。
フルニトラゼパム(商品名:サイレース、ロヒプノールなど)
ニメタゼパム(商品名:エリミン)
エスタゾラム(商品名:ユーロジン)
クアゼパム(商品名:ドラール)
長時間作用型
フルラゼパム(商品名:ダルメート、ベノジール)